守山市剣道連盟

 

【生い立ち】

日本刀が日本で発明され、日本で改良使用をされてきた、日本独自のもので、彎曲(反りと云う)と鎬(しのぎ)を持つ「片刃(かたは)の剣」というのはご存知の通りです。この日本刀という呼び名は海外から見た呼び方で、日本人が日本刀という呼称を意識するようになったのは、欧米諸国と広く接することになる幕末の頃からです。国内で普通に刀(かたな)と言えば、この日本刀を指すのは申すまでもありません。

日本刀の創出は平安時代の中期とされており、武士の台頭と相俟って無類の強さを発揮し、それまでの刀剣を直ぐに駆逐してしまいます。そして武家政治の只中で、この剣が日本の国の表舞台に確乎たる形で君臨するに至ります。

武士の世はこうして長期に亘り続くのですが、維新を迎えて明治が明けるや、同9年に帯刀が禁ぜられ、茲に日本刀は表舞台での役割を閉じて、その威厳は宮中関連の舞台に、その殺傷能力は警察刀、更に軍刀類にも引き継がれてゆきます。

特に警察刀は初期の明治の治安維持に威力を発し、刀を操る技「劍術」、そして「武術」が見直され、同28年(1895年)、 「尚武」を目的に大日本武徳會が設立されます。

この大日本武徳會は平安遷都千百年紀年事業の一環として造営された平安神宮の西隣に武徳殿を築造(1899年)、更に中等教育での武術指導者養成の目的で、この武徳殿の直ぐ脇に武術教員養成所を開設(1905年)します。その後、「武術が武道」、そして「劍術は劍道」へと統一(1919年)され、武術教員養成所も改称、最終的には「大日本武徳會武道專門學校(略称:武專)」として、先きの大戦の終結を迎えることゝなります。

このような中、明治34年(1901年)には大日本武徳會滋賀縣支部設立の認可が下り、当時の守山村は更にその支部として組織化されます。当地区の基幹道場となった旧警察道場では心地よく、まさに心地よく稽古の声が響いたものだと言われます。

戦い終わって戦後まもなく、大日本武徳會では占領軍の解散命令を受諾、剣道界では武器と見なされる刀類があらゆる形で没収され、その文化の存続さえも危うくなります。結局、サンフランシスコ条約が発効成る昭和27年春4月(1952年)まで、国家としての存立が認められなかったと同じように、この地に剣道そして日本刀の存在すること自体が否定されたのです。昭和25年に全日本剣道競技連盟が設立されますが、同年直ぐに全日本撓(しない)競技連盟へと、剣道という文字を使わない改称を余儀なくされた程です。

そのような何とも寂しい時期も経ながら独立回復の年、昭和27年、秋10月には待ちに待った全日本剣道連盟(略称:全剣連)が結成となります。先きの全日本撓競技連盟をこの全剣連が合併吸収したのが昭和29年、その頃は地方の各地でも夫々の剣道連盟が設立された時期でもありました。

当地、守山野洲地区では、昭和282月に野洲郡剣道連盟の結成を申し合わせ、翌々306月には規約を成文化して活動の第一歩としています

一方また、昭和33年(1958年)になると、銃砲刀剣類所持等取締法(略称:銃刀法)が施行され、日本刀にあっては武道用具もしくは美術工芸品として所持が可能となり、再び更に格調高く文化を積み上げてゆくことが出来る世となりました。

さて、野洲郡剣道連盟が発足したその後の守山の剣道は、まもなく守山町剣道連盟としても動き出すのですが、連盟会長は兼任、活動内容もほゞ同じで、両者並立同居の状況が続きます。そうして時は送られ、守山町体育協会が結成されるや守山町剣道連盟として此処に加盟、市制に移行する時に『守山市剣道連盟』へと分立なって、人口増加に倣うかの如く拡大進展し、今に至っています。

 文責 守山市剣道連盟 会長 西井清治